作陶展 ③・・・「一宮市浅野字駒寄12-2のギャラリー葵」にて

老人ホーム紹介センター東海の小川です。

 ここ数日「7月12日~17日作陶展」の出展作品の窯焼きに集中しています。喫茶ギャラリーですのでそんなに出品数は多くありませんが、焼成終わった物をみながらこれは出そうか品しようか引っ込めようか一人で悩みながら選別しています。今回は織部色の花器・大皿・酒器等を出品します。織部は古陶器から現代のものまでたくさん物があります。私も自由な形、緑色の濃淡が好きでいくつか作りました。

 織部焼(おりべやき)とは、安土桃山時代の末期十六世紀後半の豊臣秀吉が政権を握っていた時代岐阜県土岐市泉町九尻付近で美濃焼として始まり、江戸時代を通じて愛知県瀬戸市一帯でやかれたやきもの、武将茶人古田織部の指導(織部好みと呼ばれる大胆かつ自由な気風を特色とするによって創始されたといわれている。

 ※古田織部(ふるた):安土桃山・江戸前期の武将・茶人。古田重然はもともと美濃の守護大名・土岐氏に仕えていたが、織田信長が美濃を平定すると、父とともに信長に属した。1568年、織田信長が上洛した際はこれに従い京へ上り、以後、摂津攻略や播磨攻め、丹波攻めなどに参加し武将として活躍した。織田信長没後は羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕え、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、紀州根来攻め、四国征伐などに出陣、慶長の役では朝鮮にも渡っている。1585年に秀吉が関白になると、重然はこれまでの功績により山城国西岡に3万5000石を与えられた。1600年の関ヶ原の戦いでは東軍についたが、1615年の大坂夏の陣の際、豊臣方への内通および京での挙兵などを疑われ、慶長20年(1615)歿、72才で自害する。 茶人としての古田織部は利休七哲のひとりに数えられ、千利休の死後、豊臣家筆頭茶人を務め天下の茶人としての地位を確立した。その美意識は独特で、奇抜で斬新な形や文様を持つ「織部焼」を生み出した。千利休亡きあと茶の湯名人として一家を成し、武家茶道を確立する。徳川秀忠・本阿弥光悦・小堀遠州らのしである。

 

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